「ビジョナリーカンパニー2」は、時代を超えて卓越性を発揮している企業を分析して、その卓越性のもととなっている要素を分析、提示していくという本。この本もかなり以前に「ビジョナリーカンパニー」に続けて読んだ。
この本の最後に、経営以外の分野の例として、ある高校のクロス・カントリーチームの事例が載っていた。それは分量もそれほどないちょっとした一節だったのだけど、私の印象の中に強く残っている。
”なぜ偉大さを目指すのかという問いには、もうひとつの答えがある。それは、大がかりな仕事に取り組むとき、その動機の核心部分にある点だ。意味の追求、もっと正確にいうなら、 意味のある仕事を求める気持ちである。
心から好きなことをしており、その目的を深く信じているのであれば、偉大さを目指さないことは想像すらむずかしい。まったく当然のことなのだ。
「なぜ偉大さを追求するのか」という問いは、ほとんど意味をもたない。理由は何であれ、自分が好きな仕事、自分にとって大切な仕事をしているのであれば、この質問に対する答えは必要としない。問題は「なぜ」ではない。「いかにして」である。
ほんとうに問題なのは、「なぜ偉大さを追求するのか」ではない。「どの仕事なら、偉大さを追求せずにはいられなくなるのか」だ。「なぜ偉大さを追求しなければならないのか。そこそこの成功で十分ではないのか」と問わなければならないのであれば、おそらく、仕事の選択を間違えている。
最終的には、意味のある人生をおくることができなければ、偉大な人生にはならない。そして、意味のある仕事をしていなければ、意味のある人生にするのはきわめてむずかしい。”
ビジョナリー・カンパニー2
その当時は、前職の会社で、働く意義を見いだすことが出来なくて本当に苦しい状態だった。そのような状態だったから、この一節が私の胸に強く響いたのだと思う。
偉大さを追求せずにはいられないほど私が好きと思えて、そして大切に思える仕事。
そのような働き方をいつかしたかった。
そのような状態に少しでも近づくように色々と頑張っては見たのだけど、今の私の状況を振り返ったときに、胸を張って「今の私は、自分が心から好きと思える仕事をしています」と言えるような状況とは程遠かった。
それなら、探せばいい。それなら、色々と試してみればいい。
もしかしたらその過程で何かしらのリスクを負う必要もあるかもしれない。だけど、後悔してしまう人生を生きてしまうリスクと比較した時に、その後悔のリスクより大きなリスクがこの世の中にそれほどあるとも思えなかった。