知識蓄積ノート【投資・FIRE】

日々得られる知識、洞察をひたすら蓄積するブログ

子供の頃の思い出(5)

 

 

私の通う高校では、成績順に授業を受けるクラスが決まるようなシステムを取っていた。

 

理系科目(数学、物理、化学)はそれぞれの試験の結果によってクラス分けがされ、英系科目(英語、古文、漢文)もそれぞれの試験の結果によってクラス分けがされる。それ以外の科目(世界史、現国)だけが元々のクラスで授業を受けた。

 

だから時間割によっては授業を受けるクラスが変わるので、カバンを持って教室を移動する必要があった。そしてそれらのクラスは、期末試験の結果によって上のクラスに上がったり、下のクラスに下がったりした。

 

このようなシステムは中学受験の時に塾で経験していたので、特に違和感もなく私の中では受け容れていた。その当時の私は勉強嫌いということもあって、本当に試験直前の一夜漬けだけで全てのテストを賄っていた。そのような状況だったのだけど、私自身の要領の良さもあったのか、下のクラスに下がるということは無かった。

 

 

 

だけど、高2の冬の期末試験でテストの結果が思ったよりもよくなくて、私は初めて英系科目のクラスが下に下がってしまったのだ。

 

「このままではいけないのかもしれない」

初めて私は「勉強」というものを真剣に捉えるようになった。さらに目の前には「大学受験」という4文字もちらつき始めていた。

 

 

 

 

そこから私は変わった。

 

一日のスケジュールを分単位で設定して、そのスケジュールでどのような問題を解いていくか、それを前日の夜に設定する。そして次の日はその立てたスケジュールに沿ってただひたすら問題集の問題をこなしていった。勉強をしながらその状況に応じてスケジュールを組んでいくような方法では、弱い人間の私では絶対に自分を律することが出来ない。そのような確信があったから、「計画を立てる自分」と「計画を遂行する自分」を分離するようにしたし、そして一度立てた計画は絶対に次の日に全てこなす様に自分に課していた。

 

 

 

高三の始めから、私の生活はそのようなものに一変した。

 

確かに大変だったのだけど、それでも、私にとってはそれほど辛くはなかった。

 

「受験勉強」は完全な個人作業で、その中で他の誰かの顔色をうかがう必要なんてなかったし、他の誰かに合わせて自分の人格を捻じ曲げる必要も無かった。

 

私にとっては、他のクラスメートに合わせてひたすら作り笑いをしている方が百万倍も辛かった。

 

 

 

もし、受験勉強が個人作業ではなく団体競技だったとしたら、私は間違いなく途中で挫折していた。

 

そのことだけは今でも確信している。

 

 

 

 

 

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