知識蓄積ノート

日々得られる知識、洞察をひたすら蓄積するブログ

セミリタイアという考え方

 

何のために会社に勤めるのか?

 
なぜ自分は毎朝電車に乗って、そして会社という組織の中で精神を殺されるようなストレスフルな時間をじっと我慢しているのか。
その先に何を見ているのか。
 
会社に勤めることによって何を得ているのか。
収入?
「会社員」という社会的ステータス?
 
でも、その二つがもし今の自分にとって必要でなくなるのなら、これ以上「会社」という枠組みの中に居続ける必要な無いのではないのか。
 
なぜ収入が必要なのか。
当然、日々の衣食住の費用を獲得するため。あるいは、将来に向けて資産を築くため。ただし、どの程度の収入が必要なのか、という問いに対しては、どの程度の支出が自分にとって起こりうるのかという点が非常に大切になる。逆に言うと、徹底的に支出を抑えることができるのなら、生きていくうえで必要な収入は抑えられるということ。そしてその必要収入を抑えることによって、不労収入(配当)、一時的な労働だけでも生きていけるのではないのか。きっと、これがセミリタイアという方法の一つの考え方なのだと思う。
 
 

何のために「会社員」という社会的ステータスが必要なのか?

 
単純に世間体なのか。
周りの親族に対して「自分はしっかりとした基盤を持っていますよ」と提示するためのものなのか。
でも、もし自分にとってそのような見栄が不要だと考えるのなら、そのような看板は本当に私にとって必要なのだろうか
例えば、家族とのつながりも希薄で、扶養家族も持っていない。そのような立場に居るとしたら、そんな看板は、世間の先入観が自分に対して勝手に課してきた「枷」以外のなにものでもないのではないのか。
 
結局、この「収入」と「社会的ステータス」を得るために、人生にとって一番心身ともに健康な時期(20~50歳)の大部分を「会社」という労働に消費することになっている。それは本当に有効な戦略なのだろうか。そのような戦略が自分にとって有効ではないという考え方は本当に存在しないのか。
 
支出を抑え、その中で「セミリタイア」という生活スタイルを選択し、人生にとって重要な時期(20~50歳)をある程度自由に生きるという考え方は本当に無理な考え方なのか。自由な時間を確保したとして、その時間をただ何もせず浪費しようといういう考えは持っていない。そうではなくて、その自由な時間を使って、私が身につけたいという思える知識を学習する時間に充てようと考えていた。
 
 

「勉強」をベースとしたセミリタイア

 
自分はどのような時、どのような状況において充実を感じるのか。
決して、他者と協調して何かをやる、ということではなかった。それは自分が物心ついたころから変わらなかったし、ある意味その資質は人格の非常に根深い部分で構成されているように感じた。その中で、「協調」や「リーダーシップ」が要求される場所に立たされたとしても、1mmも前に進めるわけがなかった。根本的に進むべき道の選択を誤っていたとした思えない
 
そうではなくて、個人として何かの知識を身につけているとき、そしてその知識をベースに何かアイデアを考えているときにこそ私の「アスペルガー」にも似た気質は合致していたのだと思う。それは今までの人生をふり返って分析した上での結論だった。
 
会社という組織は年次が立つほどに「協調」や「リーダーシップ」が求められる比率が高くなる。
そのような組織において私のような人間がどんどん生きにくくなるのは当然の結論だった。
 
そう考えたときに、「勉強」をベースとしたセミリタイアという考え方は無いのだろうかとふと思った。
私が得意なこと、好きなことの学習に自由な時間を使って徹底的に特化してみる。知識を身につけるということと並行した作業なので、その「知識」をうまく活用する道を見つけ出せるのなら、セミリタイアという道の先にも新しい選択肢を見いだせるということはないのだろうか。今のような「会社」という組織の中で半分うつ病のような状態になりながら、一日一日を現実逃避するようにして生きるよりはよっぽど未来を見いだすことができるということはないのだろうか。
 
少なくとも、試してみる価値はあるように感じた。
 

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