知識蓄積ノート【投資・FIRE】

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「自分の人生の経験を言語化することは、意味がありますか?」

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プライベートライティングは有効ですか?
 
厚木にいた頃は本当に毎日プライベートライティングを行っていた。自分の中の思考をひたすら言語化していく。それによって何かを得ていたのだろうか。少なくとも現在の自分よりは物事を深く考えることができていたように感じる。たとえ同じところをぐるぐる回っていたとしても、考えることすらしないよりもましのはず。もしそうだとしたら、自分の思考を言語化していくということを習慣化していくべきではないのか。そうして、自分の中の
考えるべき問題をひたすら言語化していく。考えを深めていく。
 
そのための一つの習慣として考えているのが「日記」。
その一日の出来事を言語化すること、その出来事に対する思考を言語化していくこと。それ自体に意味があるはず。そうして言語化しないと、その出来事を整理することができないし、その出来事から何かしらの教訓を学ぶこともできるわけがない。
 
言語化自体は手書きですべきか、それともPCですべきか。
高三の時の日記、そして厚木ではひたすら実際のノートに自分の考えを書いていた。それはそれで意味があると考える。ただし、実際のノートでは保存が大変になる。そうだとしたらその作業をPCの中で代行していくことはできないのか。確かに手書きにはそれとしての意義があるのかもしれないけど、自分の中の思考を言語化するという点においてはPC打ち込みも本質的には変わらないはず。そこに関してはPC(Evernote)を活用する。そしてイメージをベースに考えたいとき、ブログに書くべきことを図示したいときにアイデアノートを活用する。
 
次に考えるべきことは、この言語化を「日記」だけにとどめるかということ。
確かに毎日の習慣として「日記」をイメージの言語化の一つの道具として活用するのは有用だと考える。ただ、本当にそれだけで私は自分の人生における問題を明確にできるのか、そしてその問題に対して自分なりの回答を導き出せるのか。場合によっては、今書いているような「プライベートライティング」も日記とは別に習慣の中に組み込むことはできないのか。場合によってはここでの思考を言語化し、それをブログを通して表現するのもありなのではないのか。あるいは、同時並行創作法の一環としてこのプライベートライティングを活用すべきではないのか。